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北コーカサス問題、歴史概観1

anica3

Picka ti materina! アーニツァだ。
これは2007年12月にミルチャが書いた北コーカサスについてだ。
なんと書きかけだ!
ミルチャにはちゃんと最後まで書くよう言っておく。

mircea

今回は、チェチェン紛争を語る上で、背景の一つとして頭に入れておいたほうが良いと思われる、1816から1859にわたって行われた、帝政ロシアと現在のチェチェン、ダゲスタンにまたがるイスラム神権国家との「カフカス戦争」までをさらっと書いておきたいと思います。

このへんを調べているうちに思ったのは、チェチェン紛争に直接関係しなくても、歴史を語るときにどうしても触れざるを得ない、南コーカサス、北西コーカサスをどうするかという問題です。

このブログでは現在の紛争、地政戦略がテーマなので細かい歴史的なことがらは極力省きたいと思っています。南コーカサスは歴史が長くかつ複雑なので、これに拘泥していると不必要にエントリが長くなってしまいます。


そのため、南コーカサスについては必要最低限のさらに最低限についてしか書かないことにします。

そして北西コーカサス。

はっきり言ってチェルケス人のディアスポラと、彼らの一部に存在する帰還運動は北コーカサスの安全保障問題にそれほど影響するとは思えないのですが、帝政ロシアの北コーカサス征服事業を語る上でどうしても触れないわけにはいかないので、これも必要最低限について書いておきます。

というわけで、今日は古代からカフカス戦争までの長い歴史をさらっと流すだけにとどめます。

まず、地政学的説明。

ちなみに、この「地政学」というものについていつか特集を組んで書いてみたいと思います。この学問領域はかなり曖昧で、他の人の書いたものを読んでいると、人文地理学の学問領域のことを地政学と思っていたりすることがあります。まあ、曖昧な状況を私一人がどうできるわけでもなく、ここでは私個人の見解を書くことにしかならないですが。

さて、コーカサス。

一口にコーカサスといいますが、これは大コーカサス山脈の北と南は別のものとして理解して良いと思われます。

メソポタミアに近い地理上の理由から、南コーカサスではかなり早くから文明が発達しアルメニア、グルジアなどの国家建設が行われた。

対して北コーカサスでは、山岳地帯でも平野部でも、ロシア帝国に併合されるまでついに部族の雑多な集団以上のモノ(北東コーカサスの19世紀の神権国家は別として)は生まれなかった。

南コーカサスは、アケメネス朝などイラン高原と小アジアを同時に支配する勢力が存在しない期間は、常に、それぞれ小アジア、イラン高原に拠点を持つ勢力の角逐の場となりました。具体的には、後にトルコ化する南東コーカサス(大体現在のアゼルバイジャンとグルジアの東部)はイラン高原の勢力下に、南西部(グルジア西部とアルメニア)は小アジアの勢力下にあり、それぞれおのおのキリスト教文化を守りつつも支配勢力の文化的影響を受けてきました。もちろん独立していた時期もありますが。

対して北コーカサスは、南ロシアの平原に拠点を持つ遊牧勢力の影響下にあったことが多い。ここはのちにオスマン朝の間接的直接的影響でイスラム化するまで独自の宗教を持つ部族集団と集まりでした。

概ね、北西コーカサスはコーカサス語族アブハゾ・アディゲ語群のチェルケス人、北東コーカサスはコーカサス語族ナヒ・ダゲスタン語族の雑多な山岳民(チェチェンなど)が分布していました。

さて、16世紀になると、黒海北岸と中央アジアの勢力を圧迫しつつ帝政ロシアの勢力が南下してきます。

コーカサスへの本格的進出は、18世紀に入ってから本格化します。

クリム汗国に止めを刺して黒海北岸を手中にしたロシアは、コーカサス方面でのオスマン朝の影響力を排除し、またインド方面との交易路を確保するなどの理由でコーカサスに向け南下してきます。

ここで大コーカサス山脈の北と南とでは事情とその後の成り行きが大きく違いました。すなわち、長い間オスマン朝とイランのサファビー朝というイスラム勢力の支配下にあり、自ら庇護を求めてきたキリスト教国グルジアなど、影響下に置くことが比較的容易だった南コーカサスに比して、北コーカサスでは激しい抵抗にあいました。影響下にある南コーカサスに行くのに、未だ影響下に無い危険な北コーカサスを通らなければならないという奇妙な状況下にロシアは置かれました。

北西コーカサスのチェルケス人、北東コーカサスの山岳民に対し、ロシア軍による苛烈な攻撃が開始されます。

オスマン朝や、ロシアの勢力拡大を望まない英国などにより扇動されたチェルケス人は、断続的な長い戦いの過程で、ロシア側の拠点を築きコサック集団を移住させるという戦術に締め上げられ、またジェノサイドをともなった苛烈な攻撃により、諸部族が統一できないまま確固撃破され、殺害されたり難民化したり、また1864年の「大追放」による150万人のトルコへの強制移住のようなロシアの政策により、現在のロシア連邦国内のチェルケス人人口はかなり少ないものとなっています。北コーカサスのアディゲ共和国、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国のアディゲ人、カバルダ人がそれにあたります。(カラチャイ・チェルケス共和国のチェルケス人は、アディゲ人とカバルダ人の一部からそれぞれ移住させて作ったもの)

さて、このチェルケス人の戦争が終る直前に、北西コーカサスでの山岳民による戦争が終結しています。

この1816から1859にわたって行われた「カフカス戦争」については、次回。

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crnaoluja

Author:crnaoluja
こんにちは。
東欧地域の戦略環境分析が専門のシンクタンクで研究員をしておりますチェコ出身のエリシュカ・マジャーコヴァーと申します。

ネクロマンサーのすぴか、その一味のミルチャ・アントネスクとともに東欧情勢について御説明していきたいと思います。

ハンガリー以北(V4)+バルト三国は私、南東欧がミルチャ、地政学・戦略論など理論面はすぴかが担当致します。

文責は @crnaoluja (twitter)

ミルチャのアイコン絵はあんねこ先生より頂きました。
http://a-n-neko.tumblr.com/

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