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ギリシア、戦中・戦後の内戦について

anica3

Picka ti materina!

アーニツァだ!


…ちと弁解ができんな…

なにしろ管理人が被災地ではないにしろ福島の隣の震度6強が来た県に住んでいて、震災後のごたごたや原発事故の情報を注視してないといけなくて出てこられなかったのだ。

非常に難しい状況下だったのだが、どうやらこのブログの使い方に新たな要素を付加しようと思い立ったようで、それについての勉強期間も加わって再開が延びてしまった。

その分の成果は今後どんどん出していくので、今はごめんなさいと今後にご期待とを申しておくぞ。


anica2

しかしバルカンをとりまく戦略環境が激変していく中でブログにノータッチだったのはつらいものがあった。

EU内の経済問題とりわけバルカンの国であるギリシアについてのまだ終結していない騒動、

地中海沿岸(加えて紅海沿岸にも広がったが)中東諸国での激動とNATO軍の介入、

バルカンへの影響というわくでくくってもどれも注意深く観察・分析していかないといけない要素だ。


ちなみに、ギリシアはバルカンの国ではあるのだが、旧ユーゴ諸国での武力紛争のようなものが国内に起きる可能性は少ないと判断して、

分析対象国ではなく、対象国を見る際の戦略環境の一部としてのみ扱ってきた。

しかし、過去にマケドニア・アルバニア・西トラキアをめぐる戦争に参加した国であり、直接的な影響は少ないにしても、対マケドニア関係のような非軍事的国際紛争がどう影響を及ぼすかについては注意していかねばならないと思っている国だ。

実際、以前のエントリでギリシア国内の排外主義の高まりについて書いたし、また以下のような事件もあった。

ギリシャの人種差別団体、イスラム教徒40名の焼殺図る


繰り返すが、ここではあくまでもバルカンでの将来起こる可能性がある紛争、特にマケドニアをめぐる紛争にギリシアがどのように影響するかにのみ限定してお伝えする。

ギリシアの経済問題と国内での大規模なデモについては、これへの影響に限定して分析することになる。


今日は、とりあえず戦中・戦後のバルカン史の中でギリシアが体験した内戦を、前史として手短にお伝えしよう。

バルカンで共産主義パルチザンの国家と言えば大抵の人は旧ユーゴスラヴィアを思い浮かべると思う。

だが、実際はギリシアもそうなる可能性が非常に高かったのだ。

1941年4月6日からの24日間のマリタ作戦によりギリシアは枢軸国により占領された。

国王ゲオルギオス2世はエジプトに逃れ、かの地で亡命政府を樹立するが、占領前までギリシアでは国王の支持の下メタクサスによるファシスト的な独裁政治が行われており、亡命政府は国内からは冷ややかな目で見られていた。

以後、占領下のギリシアでは、ユーゴで王党派のチェトニクと共産パルチザンが発生したように、

亡命政府寄りのEDES、そしてギリシャ共産党により組織されたEAM(「民族解放戦線」)の軍事部門ELASが組織され、

大まかに独軍とこの二者の三つ巴の内戦状態になっていたこともユーゴと共通する。

そして、ELASがもっとも優勢・勢力を伸張したこともユーゴと共通する。

しかし、肝心な部分がユーゴと相違していた。

スターリンとチャーチルの戦後のバルカンでの勢力圏協定により、ギリシアは英国の勢力圏にとどまることになっていた。

そのため英軍の援助はEDESのみに集中した。


1944年5月ギリシア国内の全ての対枢軸政治勢力と亡命政権がレバノンに集結し、ゲオルギ・パパンドレウを首相とする新政権を樹立させた。EAMはこの段階では4分の一の閣僚ポストをもらうことで政権樹立に協力した。

だが、戦後このパパンドレウ政権がパルチザン諸派に対し武装解除を行うと、EAM(ELAS)はこの要求に抵抗した。

1944年12月3日にデモから生起したELASの政府・英軍に対するアテネでの戦闘はELAS側が優勢だったが、英軍が本格的に介入して一ヶ月あまりの後鎮圧。

英ソ両国の立会いの下行われた和平交渉でもEAM(ELAS)は妥協せず、アテネを撤退。

ELASは国境を越えてユーゴに逃避した。

後、ゲオルギオス2世の王政復古ののち、1946年3月よりELASはDSEと改称してユーゴから南下。

ユーゴ、アルバニア両国の援助を受け、一時はアッティカ地方まで南下した。

しかし、ユーゴのコミンテルン追放によりDSEはユーゴ派とソ連派に分裂して争いが生じた。この混乱を嫌いユーゴは援助を停止。以降DSEは勢力を加速度的に落としてゆく。

さらに重要なのは、DSEはギリシア北部のマケドニア人(当時マケドニア人と名付けられていたのはユーゴ国内のみであったが分かりづらいのでこう呼称する)やアルバニア人が多数参加しており、一般のギリシア人の指示を取り付けられなかったことだ。

1949年8月の、今度は米国に支援されたギリシア政府軍の北上によりDSEは壊滅。10月にアルバニアにいた指導者ザカリオスが戦闘中止を命じて内戦は終結した。

DSEの多くは降伏するか亡命。この一連の内戦でギリシアは甚大な被害を受けた。


大まかに述べてみたが、ここで押さえておきたいのは、内戦に民族紛争的な側面があったことだ。

彼らの多くは自らをギリシア人と規定しているという。

彼らはスラヴ人風の姓、例えば -ov や -ovski をギリシア風の -οπουλοΣ と改姓した。

ただ、私がブルガリアでマリヤ・チャブダロヴァ教授より教えられたことによると彼らの改姓は強制的であったという。

現在ギリシア領マケドニア(エーゲ・マケドニア)に住む「スラヴ人」の多くは自らをギリシア人と規定しているが、90年代に入って自らを「マケドニア人」あるいは「ブルガリア人」と規定する2つの政党が設立された。

ちなみに、第二次大戦中ブルガリアに占領された西トラキア(マケドニアからトルコとの国境までの地域)ではブルガリア化、民族浄化が行われた。



このような地域がギリシアの北部にあることを指摘しておきたい。

今後、ギリシア国内の状況、そしてこの地域の情報について、バルカンの安全保障に影響する範囲においてお伝えしていくぞ。

それでは、

Laku noc! Do vidjenja!!
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プロフィール

crnaoluja

Author:crnaoluja
こんにちは。
東欧地域の戦略環境分析が専門のシンクタンクで研究員をしておりますチェコ出身のエリシュカ・マジャーコヴァーと申します。

ネクロマンサーのすぴか、その一味のミルチャ・アントネスクとともに東欧情勢について御説明していきたいと思います。

ハンガリー以北(V4)+バルト三国は私、南東欧がミルチャ、地政学・戦略論など理論面はすぴかが担当致します。

文責は @crnaoluja (twitter)

ミルチャのアイコン絵はあんねこ先生より頂きました。
http://a-n-neko.tumblr.com/

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